先週、新潟へ墓参りに行ってきた。
父は、故郷の刈羽村に納骨された。
暑い暑い、新潟。私はこの数年、一昨年までは毎年お盆を新潟の父の家で過ごしていた。
それはそれは大きな家を建てて、大切にして それが心の支えになっていたけれど、病気がいよいよ悪くなり、
誰も住まなくなるので処分してしまった。父には苦渋の選択、断腸の思いだったろう。
家を失ってから亡くなるまでは早かった。
子どもが小さい頃まで新潟で子育てしていたけれど、いろいろな事情で京都に居を移した。
残してきた家のためにひとり住まいしていた時期もあり、体を悪くしてからは月に2回通ってきていた。
私にも、思い出がある。
いまは他人が住んでいる。前を通ると奥に洗濯物が干してあるのが見え、燦々と降り注ぐ太陽の光の下、風に吹かれてひるがえっていた。寂しい気持ちになる。
そして丘の方を振り返ると、原発の排気塔が見える。距離にしてわずか3km。
原発の安全性について危機感を持ち続けていた父は、A4の紙片に「原発共生かわら版」と題し、自分の思うことを書き発行し村人や友人知人に配布していた。
私はいつかそれをもう一度読みたいと思って、福島に嫁ぐときに実家から持ってきていた。
いまこういう状況になって読み返してみると、いろいろと鋭いことを言っていたと思う。
原発を危ないと言い、子育てのために京都に居を移した。
私は大げさだと思っていたけれど、今になると父は正しかったと思う。
あの父の娘である私が今、1歳にも満たない子供がありながら福島県に留まっていることを、父であればなんと言ったか。複雑な気持ちになる。
早くに耳を悪くして、病気でさらに父の耳は悪くなり、最後のころはもう私の声は届かなくなっていた。
父との時間は少なすぎて、伝えられなかった思いや分からないままのことがたくさんある。
そういうものも含めて、父へのさまざまな思い、姿が浮かんだ旅路だった。
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